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宮本武蔵
(1584〜1645)
「終焉の地」
肥後熊本






宮本武蔵
肖像伝
島田美術館蔵
武蔵は晩年を肥後・熊本で過ごした。当時の肥後藩主・細川忠利に細川家の相談役として迎えられた。この時、武蔵の築き上げた「武士道」が初めて政治に生かされたと云われる。すでに世に名高い代兵法者であった武蔵も57才(寛永17年)になっていた。これまでも全国を旅する中で、諸藩から剣の指南役(先生)として迎えいれたいという誘いはあったといわれるが、剣の道だけでなく、政道にも携わりたいと望んでいた武蔵にとって、肥後の大守・忠利の「相談役」という誘いは、晩年を過ごすにふさわしい道だったと思われる。また当時、相談役は「客分」といい、家臣序列外の特別な役であったうえ、武蔵には藩の給与制度にはない特別な手当て、さらに家老の特権である「鷹狩り」も許されたという。これは名高い兵法者・武蔵に「身分の上下がつかないように」との忠告の心遣いであったと云われる。晩年の武蔵はこの地で「兵法35ケ条」「五輪書」を著し、禅、茶、書画三味の日々を送ったと云う。
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宮本武蔵肖像伝 島田美術館蔵>





宮本武蔵
 一行書「戦気」
(八代・松井文庫蔵/
紙本墨書一幅)
戦気 寒流月帯びて澄めること
鏡の如し


「寒流帯月澄如鏡」は白楽天の句であり、
「和漢朗詠集」により広く知られている。

「戦気」とは戦いの意気込み、心構えをいう。
「二刀流兵法問答」によるとこの書は二天一流の戦気の濁りのないところを澄んだ寒流にたとえ、そこに月の姿を借りて敵の動静変化の気をおのれの心の鏡に映すことが肝心であると表したものである。


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各画像は島田美術館、松井文庫の所蔵品でありその管理下にあります。